2018.3.29(四)
上環Sheung Wanに来たからには、こちらに寄ります。
なんだか急に、ポップな柄になってしまっていますね

以前の姿はこうでした。
廟をこんなにしてしまうなんて、ちょっと日本では考えられないですね、さすが香港!
と思ったら区の議員の中には芸術は認めるが廟には似つかわしくないと、いう人もいるようです。
廟の中は撮影禁止です。
お線香立てがあった場所に、元は外に掛かっていた扁額?が置かれています。
廟関係者は、この廟のイメージが“恐ろしい、沈鬱”なのでそのイメージを払拭し、若い人にも親しんでもらいたいため、このようにポップな柄にした、との見解が出ていました。
こんな車が停まっていました。
そして、ここに来たからには科記咖啡餐室For Kee Restaurantの猫ちゃんにご挨拶。
いつまでも長生きしてね。😸
最後にもう一度ちゃんと写真を撮ってみました。
☆百姓廟メモ
正式名弥:廣福義祠
1851年建立。
香港開港初年、植民地政府は華人と西洋人の居住する区域を分け、太平山區、上環一体は華人が集中して居住する区域になりました。
中国大陸から香港に出稼ぎに来た華人の多くは、石の切り出しや加工などの危険な肉体労働に従事し、その為そこで亡くなった人たちの遺体は安易に近場で葬られていました。
1851年、華商の代表14人が政府に、この地に廣福義祠を建てることを申請しました。
異郷の地で客死した華人の遺体と位牌を預かる場所としました。
その後ボランティアが食事の炊き出しなどをするようになり、家のない人たちが集まるようになり、廟の中は家の無い人や病人や死体で溢れかえる様になります。
英字新聞に、その不衛生さが書かれるようになり、ロンドンも騒然となり、植民地政府でも建議が起こり、1872年に華人の寄付により東華醫院Tung Wha Hospitalが建設され、病気の人はそちらに収容、廟自体も東華醫院の管轄となりました。
香港2級歴史建築。
花襲人