つづきです。
何とも哀れな呼ばれ方です・・・
1945年8月、溥儀と親族、侍従までもソ連軍に捕らわれ捕虜としてソ連チタ?近郊のモロコブカ療養所へ送られる。
1945年11月、溥儀と親族、侍従はソ連のハバロフスクの紅河別荘に送られ約十ヶ月監禁される。そこは現在休暇村になっている。
ソ連ハバロフスク第45収容所。
溥儀と親族、侍従は帰国後、撫順の戦犯管理所に監禁され、1959年特赦で解放される。そこは現在、往時陳列館になっている。
1950年10月、朝鮮戦争が鴨緑江にまで及び、戦犯の安全の為、溥儀等の人達はハルピンの元満洲正陽警察署の監獄へ護送される、1954年3月戦闘が緩やかになり再び撫順に返される。その警察署は立て直され成道外公安分局になっている。
以下戦犯として捕らわれた人達一人一人の写真なんですが、余りにも可哀想で割愛させていただきます。
1945年5月、日本軍の一級戦犯が極東軍事裁判の法廷に列をなして出廷、右列一番前は日本陸軍大佐土肥賢二、右列前から四番目が日本の陸軍大臣南次郎、二人はかつて溥儀を天津から中国東北部へ逃がす協議をし、偽満州国の執政をしていた。
1946年8月7日、アソシエッドプレス社の報道。
ソ連に監禁されている溥儀はある日ウラジオストクに送られ極東軍事裁判に出ることを承諾させられ、その間彼はソ連領事館に滞在していた、その間彼は全てをソ連に監視されていた。
1946年8月10日、インターナショナルニュースプレスサービスの報道。
溥儀は既に日本の厚木飛行場に降り立ち、彼は出廷したら日本が中国東北部及びその他の地方を侵略したと証明しようと考えていた。
極東軍事裁判の法廷で宣誓する溥儀。
極東軍事裁判の法廷で証言している期間、溥儀は「祥貴人」譚玉齢の写真を取り出した、年齢僅か22歳の愛人は日本人によって殺害された。
写真の裏にはこう書かれています。
譚玉齢の写真、胸が痛みます。
偽満州国時代、日本はアヘン専売公署と通じ中国東北部のアヘン売買を独占、専売制度でアヘンが氾濫した。
1946年8月20日、インターナショナルニュースプレスサービスの報道。
溥儀は極東軍事裁判の法廷で日本の関東軍が毎年アヘン売買で得ていたお金は二億元にも達すると証言した。
東京で出廷している期間、溥儀とソ連側監視人が連合軍の記者インタビューに応じ、溥儀はソ連での生活はあか抜けていて、家族とハバロフスクの二つ星ホテルに住んでいる、前途は未定だが、読書、散歩、麻雀、日本の将棋等を楽しんでいる最中と言っている。
インタビューは後に1948年9月23日の<士襪報>(英文名調べきれませんでした)に掲載された。
1946年8月21日、極東軍事裁判の法廷で、日本側の弁護士が溥儀は天津に居た時自ら日本の陸軍大臣南次郎宛てに手紙を書いたと証言した、ただし溥儀は裁判の判定の結果それが偽造された物だと認められた。
溥儀と親族がソ連に捕らわれていた間に書いた絵(複製)
溥儀が逃亡時に携えていた真珠琺瑯金時計、彼は撫順に囚われて居た時他の宝物と交換した、現在は瀋陽の故宮博物館に展示されています。
1956年、溥儀は撫順の戦犯管理所の計らいで炭鉱を参観。
1956年7月、溥儀は瀋陽の中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷で証言した。
エナメルのご飯容器、溥儀の戦犯番号981が書かれている。
左が日本の大正十二年の十銭硬貨、右が偽満州国の大同三年一分硬貨の正面と裏面。
最後に飾られていた写真、溥儀を取り囲んでいるのはソ連の人でしょうか?
つづく
花襲人
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